親友の母親が自死した話
七夕の次の日の朝、起きがけにキッチンで冷たいものを飲もうとした。すると、突然電話がかかってきた。画面を見ると、地元の友達からだった。
たまに帰ると、家業である農機具屋の業者として家にやってくることがある彼だった。年末年始には同級生で飲んだりしていたし、会えば普通に話す。何年も顔を合わせていないというわけではなかった。だが、なぜ関東にいる私あてに電話を??。。なんだろう。こんな朝から酔っぱらっているんじゃないだろうな。
そんな感じで電話に出た。
少々重い声で、彼はこう言った。
「ゆりのお母さん、亡くなったって。・・自殺だって」
よくよく晴れている、蒸し暑い真夏の朝である。
聞き間違えであって欲しかった。
仮名をゆりとしよう。
私とゆりは、いわゆる「ライバルのような親友のような関係、環境は近しいけれど普段心の内を進んで話すような仲にはなれない、けれどもお互いの境遇を最もよく分かり合える存在」だった。
胴の一帯に、ずん、と黒く重たいものが突如現れた。
電話にその後どんな対応をしたかは覚えていない。その日1日、何をしていたのか、今思い出そうとしたが思い出せない。
だが覚えているのは、次の日にだいぶ前から決まっていた大切な用事があった私は、『今日これから地元に帰る』という選択肢にたどり着けなかった。ということだ。なんなら、もう頭の中では無かったことにしていたかもしれない。
夕方、母から電話が来た。
「路地、帰って来い」
この時、初めて
『今から地元に帰って、明日ゆりの母親の葬式に自分は参列しなければならない』
という事実にたどり着いた。
咳が切ったように涙が出てきてしまい、頭が真っ白けっけになった。ただ大きな感情の波に陥った。その時間まだ都内にいた同居人に慌てて電話をかけた。かなり支離滅裂な日本語と不細工な声で、これから地元へ帰る旨を説明する羽目になった。
だって、親友だったのだ。
ただすごく仲が良い、というところを超えていたと思う。
幼稚園から一緒で、きっかけは覚えていないけれど、気づいた時にはお互いの家に遊びに行く仲だった。小学校に上がり、1年生の時からただ2人、ピアノを習っていた私とゆり。中学校でクラスが2つになると、私とゆりは絶対にどちらかのクラスに分配され、それぞれ合唱の伴奏役をしてきた。
もう一つの楽器の習い事も、ゆりから誘われて始めた。そちらは高校生まで続いて、資格を取るまでに頑張った。不思議な縁だと当時から思っていた。
ゆりは本当にすごい。
なんでも冷静にこなすし、頭もすごくいい。一方私は要領が悪く、記憶力がない。ゆりはレッスン中アドバイスされたことを、すぐモノにしてやってのける。私は時間が終わるまでやり直しの連続。作法やなんかを私が突っ込まれ、なぜかゆりは可愛がられる。学校でも学級委員長、生徒会長、代表。なんでも経験していた。
それなのに、さっぱりとした性格で、恋愛ではそういう話が途切れたことはないのに全く嫌味がない。
今だって、その頭の良さを活かして博士課程を取り、研究職を目指している。
そんなゆりの、お母さん。
朝の知らせを聞いてから、無意識に避けていた。帰る事になり、やっと思い出せてきた。あの人だ。私、ゆりとあんなに一緒にいたから、覚えている。
ゆりに付いて発表会に来ると、終始冷静にゆりを見守っている。いつも着ていた白いトレーナー。赤いチェックシャツ。ゆりに話しかける声。黒髪。優しい声色。
次の日、葬儀場の入り口で久々に見た彼女は、私が最も人生上で見たくない彼女の姿だった。彼女の母親に怒りすら覚えた。どこにもぶつけようのない怒りだ。この怒りを感じてしまったことが残念だった。それがさらに悲しみを深くした。
どこを見渡しても真っ黒。誰もが泣いていた。
彼女の母親が小さい頃から慕っていた近所のお父さんは、掠れ声で泣きながら『なぜ、なぜいってしまったのですか、〜ちゃん』と問いかけた。私だって小さい頃から知っているお父さんだ。そんなの、聞きたくなかった。彼女の母親の両親はご健在だったが、泣き崩れ、憔悴しきっていて支えられても立てないほどだった。クールなゆりの兄も、顔を真っ赤にして肩を震わせていた。弔辞なんて、喋れていなかった。ゆりの父親も、まだ信じきれていない、という風な感じに見えた。なんだ、こりゃ。もう見ていられない。こんなところにいたくない。あんまりだ。
小学校でゆりの家に遊びに行った頃をなぜか思い出した。ファミコンでFF7して、おやつ食べて、音楽流して踊ったりした。地元が今より何倍も賑やかだった頃。大人になったとはいえ、今の年齢でこんな場面に立ち会うことになるなんて、想像もしなかった。悔しい。ゆりの家族にもたくさん思い出はあるのに、こんな形で再会することになるなんて。
ゆりの弔辞が始まった。彼女は涙声ながらも、母の死を受け入れ、未来の自分の幸せを約束し、しっかりと愛のこもった弔辞を読み上げていた。
すごいと思った。完璧な内容だった。もし自分の母親がこんな形で亡くなったら、私はこんな風ではいられない。きっと狂ってしまう。自分も死のうとするんじゃないだろうか。ねえ、なんでそんな、冷静でいられるの。そんな思いでゆりを見つめた。突然ゆりが狂ってしまわないか心配だった。
この場でもやっぱり、ゆりはゆりだったのだ。史上最悪の場所に立たされているのに、あんなに冷静だ。正直、言葉を発せないくらい泣いて欲しかった。ゆりにだって、泣き崩れてしまうくらい許してくれよと誰ともない誰かに謎のツッコミを入れてしまった。
出棺の前に棺桶に花束を入れた。綺麗なお顔だった。
ゆりはこの後において、遠くからありがとうね、という声をかけてくれた。私はウウン、としか言えず、少しの間2人で腕をさすりあって泣いた。まるで私の方が励まされているような気がした。気をつかっているのか、一歩引いていて、まだ花を捧げる人たちにお辞儀している。ゆりは、そんな子なのだ。
ああ、本当に恐ろしい。この葬儀の会場が、今この時世界で一番悲しい場所であることに間違いはなかった。
自殺した人は、真っ黒な穴になってそこに爪痕を残していく。
残された人は、その穴に引きづりこまれてしまわないように、しっかり立たなければならない。そして、それを近くに見つめ続けなければならない。
何てむごいことだろう。なんなんだろう。感情をぶつける先がない。死ぬしかないって、一体、どういうこと?わからない。わかる必要もない。
本当のことは誰もわからない。
彼女の母親は、うつ病にかかっていたときいた。
家族に責任を感じて、薬を飲むこともやめてしまった。
周りの人の気遣い、明るい声掛け、報告、移ろい、それらが全て、彼女の心には逆効果に映ってしまったのだ。そうして、ひとり静かに、静かに、決心していったんだろう。
この間お盆で地元に帰った時、幸いゆりと2人で会える時間が取れた。
しっかりと彼女はことの経緯を話してくれた。
多分、まだ夢だと思っている節もある。私も彼女も。
話を聞いていて、ゆりの母親から、ひどい言葉や態度をゆりが受けずにいたことが救いだと思った。
もしそれでも、彼女は冷静に話してくれるだろうか。
私は、怖い。
彼女だって必死に耐えていただろう。自分が泣き崩れてしまう葬儀こそが、彼女にとっての悪夢だったかもしれない。今回彼女は、どこかのタイミングで、声を上げて泣きじゃくるということが、出来たんだろうか。
もっと話して欲しい。醜くても、受け止めたい。心の闇の奥深くまで分かりあわないと。真っ黒くなって光が届かなくなる前に、かき混ぜて、空気を入れて、少しでもいいから、なんでもいいから、話してくれよ。
懐かしい店だったがパスタの味は全然入ってこなかった。嬉しくて、私は必死で話を聞いていた。
数十年後に社会で働けなくなったら、森に住むか故郷に帰るかしたいと思っている。しかし、今回のことを受けて考えた。
なるべく自分の知っている世界は広いほうがいいのではないか。
広い世界を知って、いろんな人を知って、自分はどうしたいかを知ること。自分の好きなものを側に置けるように計らうこと。その上で帰って来れば、もしどうしようもなく真っ黒い感情に襲われた時、自分で命を絶つということまでにはいかなくて済むかもしれない。
あるいは、責任という言葉、人の価値観で発せられる言葉、体裁なんかに縛られてはいけないということ。
ましてや家族に対する責任は、自分1人でどうこうなるものではないのだから、命を絶っても綺麗に果たされるわけではない。
決して、彼女の母親の人生をどうこうという話ではありません。
ただ、誤解を恐れずに言えば、狭い世界で生きて行くということはそういうことなのかもしれない、と思ったのです。
とまあ、話がまた支離滅裂になってきたところで
要するに、自死は喪失感と推し測りによって語られることになる
それは人が生きていくことと正反対のパワーが働いてしまう
そこから一刻も早く前に進むこと
そして生きている人が生きている人に、生きて欲しい人に、日々きちんと気持ちを伝えて、「生きて」って言い続けることだと思うのです。
以上。
お腹すいたのでご飯を作ります。
路地.